【戦略コンセプト#1】頂点に立った者にしか見えない風景【スポーツ】


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「戦略コンセプト」シリーズについて
私が新卒で戦略コンサルティング業界への就職を選んだ大きな理由の一つが、創業者ブルース・ヘンダーソン氏を中心としたBCGの「PPM」や「エクスペリエンス・カーブ」「タイムベース競争」といった広くビジネス界の構造や急所をとらえた画期的なフレームワーク・コンセプトの開発や、マッキンゼー大前研一氏がコンサル歴わずか3年の32歳の頃に、巷にあふれるいわゆるテクニック本ではない、今ではすっかりビジネスの定番書となった「企業参謀」の執筆に代表される、業界としてのリーダーシップ性/イノベーティブ性に惹かれたからである。

コンサル業界に入った後は、ひたすら目の前にあるプロジェクトに向かうことに傾倒してきたが、未熟ながらもそろそろ「創っていく」「提唱」していく側の活動もしていきたいというのが趣旨である。
不完全/粗削りな「コンセプト」となっていることも多分にあるが、随時リライトしながらブラッシュアップしていこうと思っている。

そんな当シリーズの第1回目は、「頂点に立った者にしか見えない風景」について。


Contents

■「頂点に立った者にしか見えない風景」

今月13日、国枝慎吾選手が男子車いすテニスの部で9度目の「ITFワールドチャンピオン」を受賞した。
2大会ぶり3度目の金メダルに輝いた東京パラリンピックに続き、USオープンでも2年連続8度目の優勝を果たすなど、当選手にとって今年も大活躍の年であったのは誰も疑いようのない事実だろう。

加えて、五輪前から標榜し、ラケットにもその言葉を貼り付けて臨んだという「俺は最強だ」との自身の言葉を再び証明し、有言実行のチャンピオンとして話題を呼んだことも記憶に新しい。

世界ランキング1位の絶対王者として君臨する国枝選手の「俺は最強」という言葉を耳にしたとき、真っ先にある映画の一節を思い浮かべた。

それは、『チア☆ダン~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~』(2017)という映画の中で、天海祐希演じるチアダンス部の顧問早乙女が主人公ひかり(広瀬すず)に言い放った次の言葉である。

“ 頂点に立った者にしか見えない風景がある”

チアダン アスリート Queen UFC
 東宝株式会社

少し補足すると映画では、主人公らチアダンス部が優勝を目指して練習を積み重ねてきた全米大会の決勝を目前に、顧問早乙女は、誰よりも頑張りチームを引っ張ってきたエースで部長の彩乃(中条あやみ)をセンターから外し、代わりに技術面で劣るひかりを抜擢。
これまで懸命に努力してきた彩乃の努力を踏みにじる采配をとった早乙女に対して「先生を軽蔑します」と反抗。
それに対して早乙女は「それでもいいわ。」という言葉に続いて、このように冷たく突き放すのだ。

■UFCのスーパースター2人しか共有できなかった風景

私は、この「頂点に立ったものにしか見えない風景」という概念を度々想起する場面に出くわす。

最近では、今年7月に行われた米総合格闘技UFCのビッグマッチにおいての一場面だ。

それは、2021年にForbesが発表したアスリート長者番付ランキングでサッカーのリオネル・メッシ選手やクリスティアーノ・ロナウド選手を押さえて、推定年収約197億円で「世界一稼ぐアスリート」となったUFC一のスーパースターである男子元2階級王者コナー・マクレガー選手と、同じくUFCのスーパースターの女子元世界王者ロンダ・ラウジー氏のやり取りであった。

マクレガー選手は直近の試合で対戦して負けている相手へのリベンジマッチとして臨んだ試合だったが、試合開始早々に足首を骨折してしまいドクターストップでTKO負けを喫した。

足首の痛みから立てず座り込んだ体勢のままで受けた試合後のインタビューでは、「俺は負けてねぇ!」と叫び、相手選手、挙句の果てにはその妻にまで暴言を浴びせる悪行に及んだ。

これに対して、格闘技ファン、選手からは壮絶な批判を浴び、UFC代表のダナ・ホワイト氏も「相手の家族まで貶すのは好かない」と不快感をあらわにした。

(足首が折れて立ち上がることができず座ったまま、試合後のインタビューで相手選手に罵声を浴びせるマクレガー選手)

そんな中、一人だけマクレガー選手を擁護したのがラウジー氏である。氏は自身のTwitterで以下のように投稿している。

” 負けた瞬間からすぐ次のファイトをプロモートするあなたの姿勢に感嘆する。私にはとてもできないことだ。他の選手、UFC、メディアはあなたがいてくれてラッキーだ。”

(マクレガー選手を称えるラウジー氏のツイート)

誤解を恐れずに言うと、UFCの人気を牽引してきたのはこのコナー・マクレガー選手とロンダ・ラウジー氏といっても過言ではない。
両者とも世界王者となっている上に、UFC史上でも圧倒的人気を誇るスーパースターである。

世界一稼ぐアスリートであるマクレガー選手は、2013年のUFC参戦後、歯に布着せぬビッグマウスのトーク力とそれを支える試合での強さ・エキサイティングなファイトスタイルで一躍人気者に上り詰めた。

UFCの歴代PPV(ペイパービュー)イベントのトップ10をみると、10のうち実に8のイベントが大トリをマクレガー選手が務めたものであり、いかにUFCのドル箱スターであるかが窺える。

マクレガー選手が登場する前のUFCのスーパースターが誰であったかというと、それこそがラウジー氏である。

元々UFCは男子の試合しか実施されておらず、ホワイト代表も「UFCで女子の試合を組むことは未来永劫ない」と公言していた。
そんな男子MMA至上主義のホワイト代表であったが、ラウジー氏のカリスマ性にほれ込み、自身の発言を覆す形で初代女子バンタム級チャンピオンとして迎えた。
その後、階級を3つ増やし今ではPPVの大トリを務めるほどの人気コンテンツとなったUFC女子部門の現在の盛況ぶりはこうしたラウジー氏の貢献によるところが大きい。

(国外大会で熱烈なファンに迎えられるラウジー氏。見てわかる通り若い女性のファンが多いのも特徴)

(ラウジー氏の人気は競技に留まらず、『ワイルストスピード』『エクスペンダブルズ』シリーズなどハリウッド大作映画にも出演)

そんなUFCの人気を一手に請け負い、広告塔としてのプロ―モーターからの期待、格闘技ファンからの応援/非難を背負いながらチャンピオンとしてしっかり勝ち続けるプレッシャーの下戦ってきたマクレガー選手とラウジー氏の両名の今回のやり取りを通して、「頂点に立ったものにしか見えない風景」を感じることができる。

実力・人気ともに頂点に立った2人にしか分からない風景vsそれ以外の世界

ある意味選民思想的で、凡人には排他的かつ残酷でありながら、とてもロマンに溢れる構図ではないか。

諸事情により深くは立ち入らないが、最近でぱっと思いつくところで、以下のような場面もこの構図を感じることができると思うので、こういう視点からもう一度見てみるのも面白いと思う。
(※このリストは随時追加していくので、気になる方は時間が経ってから気が向いた時にチェックしてみてください!)

この風景は、何もスポーツ界に限った話ではなく、何かで頂点を獲ったことのある者であれば、大小はあれど、見ることのできるものであると思っている。

例えばビジネス界においては、経営者であったり、何かの責任者・部門長であったりでもよい。それ以外でも、何かのコンクールで優勝したり、学校の生徒会長に選ばれたり、なんなら、部活のキャプテンや学級委員に選ばれたりといったことでもよい。

こうした経験がある方は思い返してみてほしい。そうとは認識せずとも、”あの時” 他の人には見えない風景を見たのではないだろうか?

■本当に「頂点に立ったものにしか見えない」風景なのか?

この「頂点に立ったものにしか見えない風景」は果たしてアスリートをはじめ頂点に立ったことのある者にしか見えないものなのだろうか?

私が幼いころに観た映画『D2 マイティ・ダック/飛べないアヒル2』(1994)のエンドロールで主人公のキッズホッケーチームのメンバーたちが世界大会で優勝した後、キャンプファイヤーを囲みながら、お世辞にも上手とは言えない歌声で、英人気ロックバンドQueenの名曲『We are the champions』を歌っているシーンがある。

思わず一緒に歌を口ずさんだ時、たまらなく高揚感を抱いたのを覚えている。映画観覧中、主人公たちをずっと応援していた自分も少しだけChampionになれた気分にさせてくれた。

(基本的に皆笑顔ではあるものの、しんみりとしたキャンプファイヤーであったり、世界一になった直後とは思えない時折見せる険しい顔だったりと、何か不協和音的な何かを感じさせる演出がグッとくる。SandlotのBennyも相変わらず良い表情)

■アスリートとファンが風景を共有できるQueenの名曲

欧米のスポーツ界では、優勝したチームがこの『We are the champions』を歌って祝うということがプロアマ問わずに行われている。

歌いやすいメロディーであることに加え、” We are the champions(俺たちはチャンピオンだ)” であったり、 “No time for losers(敗者に構っている時間はない)” であったりといった強烈な歌詞が「優勝した者しか歌えない」特別感が勝利チームとの相性が良いのだ。

そして、こうしたチームはともに応援してきてくれたファンと一緒に大合唱する場面が多い。

(2019年、NBAチャンピオンとなりファンとともに大合唱するトロント・ラプターズ)

(チャンピオンの代名詞と言える全盛期シカゴ・ブルズの1997年優勝シーンでも耳を澄ませば。曲は3:23~)

これは、血と汗の滲む努力を経て頂点にたどり着いたアスリートにしか見えない風景を、厳しい言い方をすれば「本来見る資格のない」はずのファンにも、ずっと共に応援してきてくれた感謝を込めて”少しだけ”共有でき、ファンをまるで「自分が世界一となった」かのような気分にさせてくれるという意味で、とても貴重かつ感動的な機会だ。

日本においても、同じ歌を歌って共通の空間を共有することは風習としてある。卒業式などで卒業ソングを仲間と歌い、同じ想いを共有した経験がある方も多いかと思う。

しかし日本では、各学校やチームレベルの凱歌はあるものの、『We are the champions』ほど汎用的かつ強烈な定番ソングは存在しない。

これはスポーツのさらなる発展・成長にとってとてももったいないことのように思う。

■「スポーツ」×「アート」の爆発的な力

スポーツや音楽・映画などのアートは、それぞれ単体でも素晴らしい力を持っている。しかし、両者が組み合わさることでさらに威力を発揮できるケースが多い。

スポーツが映画の力を借りてさらに輝いた最近の例では、今年8月に開催されたメジャーリーグの「MLB at Field of Dreams」がある。

名作映画『Field of Dreams』(1989)に登場するトウモロコシ畑に囲まれた野球場を実際のロケ地アイダホ州で再現した特設会場で公式試合が行われ、同映画の主人公を演じた俳優ケビン・コスナーに続いて各チームの選手がトウモロコシ畑から入場するという映画内のシーンに寄せた演出が施された。

この試合は、直近16年のMLBの中継で最多となる590万人の視聴者を集め、中継を担ったFox Sportsの25年のリーグシーズン試合放映史上ダントツの広告売上を記録するなど、興行的にも大成功を収め、来年以降の開催も決定している。

(映画のシーンさながらにトウモロコシ畑から登場するケビン・コスナーと選手達)

また、音楽がスポーツの力を借りる例としては、毎年開催されるNFLのスーパーボウルのハーフタイムショーがある。

毎年ド派手な演出の中、古くはマイケル・ジャクソンからビヨンセ、レディー・ガガなどの豪華ミュージシャンが壮大なステージを飾るハーフタイムショーは基本的にノーギャラで行われる。

その理由は、多い年で1億人以上が視聴する最大の露出機会であるこのイベントに出演したアーティストの宣伝効果が絶大だからである。

Billboardによると、今年出演したThe Weekendの出演翌日のレコード売上(デジタル含む)は前日比385%増、昨年出演のシャキーラとジェニファー・ロペスにいたっては893%増とその威力のすさまじさが分かる。

また反対に、このハーフタイムショーを観るためにスーパーボウルにチャンネルを合わせる視聴者も多く、その意味ではNFL側も音楽の力を活用している形だ。

「スポーツ」×「音楽」は、こうした数字に表れるビジネス効果に限ったことではない。

冒頭の国枝選手の「俺は最強だ」に戻りたい。
(ご察しの良い方ならここまで読んで薄々感づいてらっしゃるかと思うが、冒頭の国枝選手の文言は今まで述べてきた「頂点に立った者にしか見えない風景」という概念とは実はちょっと違うという事情はあるが…)

国枝選手の「俺は最強だ」という言葉を聞いて、「ああ、国枝選手は最強なんだ。すごいな」と思った方は多いだろう。

しかし例えば、そこに『We are the champions』のようにアスリートの見える風景をファンと共有できる歌があったならば、国枝選手の勝利をより“自分ごと化”できるのではないだろうか。

「俺は最強だ」は「俺たちは最強だ」に変換され、チャンピオンとして歩く見慣れた通勤路・通学路といった日常の風景がいつもと違ったものになるかもしれない。

日本版『We Are the Champions』、誰か一緒につくりませんか?

I'd love to change the world

Sho Kume 久米翔二郎

NYに本社を置くスポーツ&エンタメの経営/戦略コンサルティングファームTrans Insight のCHO (Chief Hustle Officer)。
1990年愛知県名古屋市生まれ。音楽専門学校MESAR HAUSエレキギター科/東京大学法学部卒、
戦略コンサルティングファームP&E Directionsの北米オフィス代表(NY)を経て、現職。
音楽/映画/格闘技/X Sports/スタンドアップコメディ/NY/Hustle をこよなく愛するサイコパス。